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経営コンサルタント吉見からのお知らせ

大谷光真著「すくいとよろこび」を読んで

大谷光真氏は浄土真宗本願寺派第24世門主様です。

すぐ答えられそうで、私にはすぐ答えられない質問が次です。
「どうして今、私はここに生きているのだろうか?」
「どうして今、私がこの仕事を続けているのだろうか?」

これまでは何とか理屈で解明しようとしてきましたが、理屈で解明できずにとうとう今日まで来ています。ということは、解明することは横において、この年齢まできたのだから「自分なりに懸命に努力して、一度きりの人生を全うしよう。毎日の実践こそが重要!」と割り切る方が自然のようです。
とにかく毎日、自分なりに悔いの無いように努力する。そして折に触れて自分の本当の姿を、時間の流れから、遠い遠い過去から遡って見ていく場を設ける。そうすると、今の自分に至るまでには代々の夫婦の組合せがあり、その結果今日の自分があることが少しずつ分かります。創造経営ではこの作業を家系調査といい、とても大事にしています。

横のつながりや広がりは、経済上(仕事上)ではステークホルダー(6種の利害関係人)との関係性に表れます。自分という人間の形成過程では、8種の人間関係というつながりの中で育まれ、生かされていることが分かります。言い方を変えると、実に様々な因縁の上に私たちの人生が成り立っているということです。


私たちは与えられた限られた人生が終わるとき、すべてを置いてこの世を去って行きます。だからこそ、自分の生まれた意義を知り、自分の人生を全うすることが期待されているのですね。そうであるなら、本当に信頼できるもの(人)を信頼して生きて、全うしていかなくてはなりません。

「根本」という言葉があります。「物事の成り立っているおおもと」と国語辞書にあります。大谷光真門主様は、「生死を超える問題」「人生ギリギリの問題」と表現されています。この意味で根本という言葉を使うなら、私の判断基準や自分の覚悟はかなり変えなくてはなりません。

人間は鏡を使わなければ、自分の姿かたちが見えません。限られた面、自分に都合の良い面を中心に世の中を見ているのが私です。特に昭和40年以降は、機械や文明の利器の日常使用は当たり前になりました。人の手を借りなくとも、誰かにお願いしなくとも、多くの場面で一人でも多くのことができるようになってきています。無理に共同作業をしなくとも済むようになりました。相手の感情をいちいち気にしなくて済むことは、一面楽なことです。その結果、「お互いは助け合う存在」という気持ちが薄れました。「一緒に力を合わせる」ということを実体験する機会も減りました。楽になったはずが、実は困ったことになってきたことに、私はやっと気づき始めました。
無関心や無反応の広がりです。愛することの反対語は憎しみではなく無関心というのが正しいようです。誰からも相手にされない、無視されることは、本当に辛いことです。子供たちのいじめの結果の自殺のように、人として一番辛いことなのです。

「任せる」とは言っても、自分が為すべきことは自分から進んで取組むものですし、日常生活では、積極的に努力する姿勢が、一生というスパンでは大事のようです。
本気の思いが心の内にあれば、おのずと形に表れてきます。人の根本の問題は、普段は隠れているだけで、自分の懐にいつも抱えています。私はこれまでいろいろ身にまとうことで、自分自身の心を自分の都合で包み、本心を見せないように、表面上でのおつきあいしてきたという反省を、今になってしています。両親や祖父母が生きてきたように、貧しさも苦しさも、そのまま抱きながら、自分なりに力強く人生を歩むのが正しい道のようだと、この本を読んで再確認致しました。
自らの意思で信じ、信じたものは多くの人に伝えていくこれからの人生にしましょう。願いとは、神の願いであり、宇宙の願いであり、それは家族の願いであり、親祖先の果たせなかった願いであり、叶わなかった願いでもあるようです。
自分の根本の問題は自分のギリギリの問題ですから、最後(死ぬ間際)には自分で解決できると良いですね。自分自身の殻に閉じこもるのではなく、関わる人すべてに向けていく人生、人まねではない自分の人生に変えていくことでしょう。
私の年齢ですと、一日生きるということは、一日死に近づくことなのですから。

最期に門主様の経典の説明の中から、私が印象に残った言葉で終わります。
「願わくばこの功徳を持って、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。」

[ 更新:2011-08-17 08:39:39 ]

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